その4.水を得たマッさん

 サントリーの創業者鳥井信次郎は1879年(明治12年)大阪で両替商や米穀商を営む家の次男として生まれた。竹鶴政孝より15歳年上である。大阪商業学校に2年間学んだ後数え年14歳で家を出て薬種問屋の小西儀助商店へ丁稚奉公に住み込んだ。当時様々な薬剤や香料、添加物を商う薬種問屋の主な事業の一つが「模造洋酒」造りであった。醸造されたアルコールに甘味料を加え色をそれなりに似せて造ったブランデーやリキュール、ウイスキーが数多くの薬種問屋を経由して売られていた。小西儀助商店で洋酒つくりを覚えた鳥井は、1899年(明治32年)独立し、鳥井商店を起こした。満20歳の時である。
 1906年(明治39年)店名を寿屋洋酒店と改めた鳥井は、スペインから仕入れた葡萄酒に日本人の好みに合わせて甘味を加えるなど工夫を重ね翌年「赤玉ポートワイン」と名付けて売り出した。商才に秀でていた鳥井は、数多くの医学博士の推薦を取り付け滋養効果を謳う一方人気女優のヌードポスターで大胆な宣伝活動を行うなどして広範な愛飲者の開拓に成功した。当時としては1本40銭という高額の販売価格(米一升10銭の時代)であったが、まさに飛ぶように売れ、寿屋発展の基礎を作ったのである。一躍洋酒業界でこの人ありと認めらた鳥井であったが、彼の胸のうちにたぎる本格的ウイスキー造りへの熱い思いは一層膨らんでいった。
 結局、竹鶴はその鳥井の強い要請を受けて1923年(大正12年)春寿屋株式会社へ入社した。10年契約で年俸4,000円という厚遇は当時の総理大臣を凌ぐほど破格のものであったと竹鶴も大いに満足していたが、後々寿屋にもたらすであろう膨大な利益を見越しての大盤振る舞いであったとしたら鳥井信次郎の商魂は類まれなものであったといえよう。
 ところで、竹鶴と鳥井の出会いであるが、この時まで二人はまったく知らない仲ではなかったと思われる。竹鶴が本格的ウイスキーつくりの研究にスコットランドへ渡る前、彼が勤めていた摂津酒造では自社で蒸留したアルコールをもとにブランディやウイスキー、甘味葡萄酒などの委託製造も行っていた。そしてその得意先の一社には鳥井信次郎の寿屋もあった。
 また1918年(大正7年)竹鶴の旅立ちの際には、神戸の港に寿屋の鳥井信次郎も見送りに来ていたと竹鶴の自伝「ウイスキーと私」(1976年ニッカウイスキー)や「ヒゲと勲章」(1966年ダイヤモンド社)に書かれている。
 いずれにしても本格的ウイスキー造りという夫の夢を実現する為に遠い異国に移り住むことを進んで受け入れ日本人に成りきろうと努めていたリタにとって竹鶴の寿屋入社は心から祝福する出来事であった。
 工場建設に関わる権限一切を与えられた竹鶴は、スコットランドの風土によく似た北海道を真っ先に候補地に挙げて強く鳥井に進言したが、「消費地に近く、多くの人が見学に来れる所に限る」と釘を刺され、結局数箇所の候補地の中から大阪と京都の境にある山崎を選んだ。ウイスキーの命である水に恵まれた山崎に竹鶴も納得し、用地買収や工場設計に取り掛かっていた1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が勃発し東京は壊滅的被害を受けていた。それを知った鳥井は、赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを大量に船に積み込み東京で売りさばいて巨額な利益を得た。その余勢を駆っての山崎工場建設であったことから竹鶴の建設に関わる出費の申し出はすんなりと受け付けられ工事は順調に進み、1924年(大正13年)11月11日、着工からわずか4ヶ月で新工場の竣工式を迎えることが出来た。この間工場長の竹鶴は敷地内に建てた社宅に単身で泊まり込み昼夜も省みず働き続けた。リタは、たまに自宅に帰る竹鶴を手作りの日本料理で癒し夫を励ましたのに対し、竹鶴は「5年たったら俺とリタのウイスキーが出来る」と口癖の様にいい続けていたという。

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