その1.本物を求めて

 サントリーの前身である寿屋山崎工場で国内最初の本格的ウイスキー(モルトウイスキー)が造られたことを知る人は多いが、その工場用地の選定から製造設備の設計、原料調達、蒸留そして熟成に至るすべての工程を一手に担った工場長が後にサントリーの好敵手となるニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝であったことを知る人は少ないかもしれない。
 1923年(大正12年)、既に「赤玉ポートワイン」の爆発的売れ行きで潤沢な資金を保有していた寿屋社長の鳥井信次郎は本格的国産ウイスキーの製造を計画し、3年前にスコットランドでウイスキー製造の勉強を積み大阪に戻っていた竹鶴政孝を高額で雇い、若干29歳の竹鶴にウイスキー製造に関わる一切の権限を与えたのであった。まさにこれが日本の本格的ウイスキー製造の歴史的幕開けとなった。ところで「本格的」と断ったのには意味がある。当時国内でウイスキーと呼ばれるものは、アルコールに様々な香料や着色剤を加えて輸入もののウイスキーに似せてつくったイミテーション(模造酒)が主流であった。イミテーションがいずれ淘汰されるのは世の常とはいえ、国内に本格的製造法を知る者と巨額な投資を引き受けるものが現れるまで歴史は始まらなかったのである。

 竹鶴政孝は広島市から40キロほどの海辺の町竹原の造り酒屋の三男として生まれた。
腕白でならした政孝少年は常に生傷が耐えなかったといい特に8歳のときに階段から転げ落ち鼻に大怪我をしたらしいが、本人はこれによってむしろ鼻が大きくなり、後々香りを嗅ぎ分ける能力が人一倍高くなったと誇らしく語っている。
また中学に入ってから柔道で一層強靭な体作りをしたこともその後のエネルギッシュな活躍を支えるうえで大いに役立った。ところでその中学時代(忠海中学)、同じ寮で竹鶴の布団のあげさげをさせられた後輩に後の総理大臣の池田隼人がおり、二人の友情は以来終生続いた。
 当初から造り酒屋の跡継ぎを期待され中学卒業後、大阪高等工業学校醸造科(現大阪大学)に入学した竹鶴であったが、彼がそこで興味を持ったのは伝統ある日本酒作りではなくウイスキーに代表される洋酒作りであった。結局彼は卒業と同時に当時洋酒メーカーとしてはトップクラスであった大阪の摂津酒造に就職した。しかし繁盛を極めていた摂津酒造もやはり模造酒メーカーであり質の高い本格的国産ウイスキーを造りたいという竹鶴の夢をかなえるには必ずしも満足できる環境とはいえなかった。
幸いその竹鶴の思いは、摂津酒造の創業者である阿部喜兵衛社長に通じるものがあった。いつまでも模造酒の時代ではないと悟っていた阿部はまず本場スコットランドでウイスキーつくりを一から学ぶことを竹鶴に勧め、渡航から滞在までの一切の費用負担はもとより日本酒作りの後継者として息子に期待を掛けていた竹鶴の両親の説得まで買ってでて、はれて1918年(大正7年)6月ひとり竹鶴を留学のたびに送り出したのである。
サンフランシスコ、ニューヨークを経た後12月に竹鶴は無事憧れの地スコットランドの土を踏んだ。この年の11月にヨーロッパではドイツと連合国の間で休戦協定が調印されてはいたもののまだドイツの潜水艦Uボートの噂が絶えずイギリスへの船旅は危険と背中合わせの時代であった。

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